人はいろいろな出来事を経験しながら、自分という存在を形づくっていく。
楽しいことも、苦しいことも、すべてが積み重なって今の自分がいる。そう思ってきた。
けれど最近、人との信頼関係というものは、想像以上に簡単ではないのだと強く感じるようになった。
たった一言、たった一度で
関係性は、たった一度の言葉や、たった一度の行動で変わってしまうことがある。
大きな出来事ではなくてもいい。ほんの些細な違和感が、ボタンのかけ違いのように、少しずつずれていく。
最初は「気のせいかな」「私が考えすぎかもしれない」と流していたことも、時間が経つにつれて、なぜか心の奥に残り続ける。
「ん?」と思った出来事は、不思議なことに、あとになってもやっぱり「おかしい」と感じるものだ。
我慢が当たり前になっていた
振り返ってみると、自分が我慢していた部分は確かにあった。
その場を丸く収めるため、相手を優先するため、波風を立てないため。そうやって自分を後回しにすることが、いつの間にか癖になっていたのかもしれない。
でも、本当に私はそこまで我慢する必要があったのだろうか。
最近になって、そんな疑問が浮かぶようになった。
価値観の違いという現実
そもそも、初めから価値観が大きく違っていたのだと思う。
その違いによって、学べたことや得られたものも確かにあった。それは否定しない。
けれど同時に、我慢を強いられる場面が、あまりにも多かったのも事実だ。
長い時間その状況にさらされていると、不思議なことに感覚が麻痺してくる。
「これが普通なのかもしれない」
「私が弱いだけなのかもしれない」
そんなふうに、自分の違和感を自分で打ち消してしまう。
他人の言葉で気づくこと
ふとしたきっかけで、その出来事を他の人に話したときのことだ。
何気なく話したはずなのに、返ってきた言葉は、「え?それはひどいな」という、意外にもはっきりとした反応だった。
その瞬間、胸の奥で何かがほどけた気がした。
「あっ、やっぱりおかしかったんだ」と。
自分では見えなくなっていた感覚を、他人の言葉がそっと照らしてくれたようだった。
それだけ、私は長い間、自分の感覚を信じることから離れていたのかもしれない。
自分のいちばんの味方になるということ
もし、自分が自分にとっていちばんの親友であるとするなら。
今、その扉は確かに開き始めているのだと思う。
もう完全に中に入ったわけではないけれど、少なくとも、その扉の前には立っている。
自分の違和感を無視しないこと。自分の気持ちをなかったことにしないこと。
それは、誰かを責めるためではなく、自分を守るための一歩なのだと思う。
ゆっくりでいい。迷いながらでいい。
それでも、自分の感覚を信じる方向へ、少しずつ歩いていきたい。

